ブラザーフッド塾
横浜ケントス校
受験
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豆知識
諸君!!ごきげんよう。
今日もみんなで
大いに勉強しよう。
※受験勉強には使用しないでください。
飯盒
(はんごう)
飯盒(はんごう)は、キャンプ・登山など野外における調理に使用する携帯用炊飯器・食器である。日本では主に屋外での炊飯に使われる。飯盒で炊飯することは「炊爨」(すいさん)と表現する。
「盒」の字は合わせ蓋のついた容器を意味する。本来は兵士が野戦等の際に食料を入れて携行したり、食事の配給を受け取るのに用いる容器というのが主な用途であり、非常時には調理器具やバケツなどとしても用いられた。日本では旧日本陸軍が野戦時の炊飯用として改良・利用したことで、野外炊飯用として定着している。本体や蓋の素材は一般にアルミ製。
日本で単に飯盒と言えば、主にキドニー(腎臓)型(あるいはソラマメ型)と呼ばれる曲がった扁平な形をしたものを指し、兵式飯盒とも呼ばれる。旧日本陸軍の兵士が装備した「ロ号飯盒」が原形で、この他に将校用が存在したため「兵士用」の意味で「兵式」の名がある。
形状は他に角形のもの(旧日本軍将校用、フランス軍など)、楕円形のもの(スウェーデン軍)などがある。焚き火よりキャンプ用コンロによる使用が多くなった最近の日本でのレジャー用には、円筒形のものが増えた。英語のメスティンも飯盒一般を示す用語であるが、カタカナ語で単に「メスティン」と言った場合はトランギアの物や類似する角形飯盒を示す場合がある。
ロ号飯盒
兵式飯盒の独特の形状はヨーロッパなど各国の軍用飯盒に見られる形で、日本でも旧日本陸軍、陸上自衛隊で歴代採用されている。
飯盒の歴史はヨーロッパ起源と思われるがその歴史は浅い。鉄をはじめとする諸々の金属がその比重の高さゆえに携行に適さず、調理器具を携帯することが現実的でなかったためである。1886年にアルミニウムの量産が可能になったことで携帯を前提とする野外用の調理器具が現実的となった。19世紀末から現在のスイス式と同様なものがドイツで使われていた。また、1931年制定のドイツの軍装に現在と同一のデザインのものを発見できる。
日本には明治維新の後、徳川慶喜が自宅にて飯盒にて炊飯を楽しんだという記録があることから、洋式軍隊と共に導入されたと思われる。飯盒導入以前の兵食は糒や焼き味噌を携行する、戦国時代とほとんど変わらないものであった。旧日本陸軍が飯盒を採用したのは、日清戦争の頃とされる。ただし、この当時の飯盒は漆塗りやホーローで食器としての機能しか無かった。
今日あるような調理機能を持つ飯盒が採用されるのは1890年(明治23年)のことで、陸軍火砲製造所が製造したものであるという。これが洋式のデザインとなり、さらに米を炊くよう工夫された。
徳川慶喜
平時の兵営生活では炊事場で調理された食事を食堂で食べ、献立もご飯に味噌汁・漬物といった家庭とあまり変わらないものであった。飯盒による炊飯は煙や竈の数で敵に部隊の配置や勢力を暴露する危険があり、野戦の、しかも不可避な場合に限られた。戦場での野戦給食は、大隊単位で後方の野戦炊具で調理した食事を隷下の各部隊に配給するのが基本で、各兵士は配給された料理を飯盒で受け取った。また、携行食として握り飯等が配給されることもあった。このような補給が受けられない場合のみ、前線で飯盒で炊飯したのである。
当時から兵式飯盒は通常4合炊きで、ヨーロッパ各国の軍用飯盒より容量が大きい。これは当時の日本兵は肉抜きで米の飯だけを1食2合が標準であり、2食分を一度に炊けるようにしたためである。今日レジャー用の飯盒も多くが4合炊きであるが、これはその名残である。明治期〜昭和初期の兵式飯盒は今日の物よりやや小さかった。その後太平洋戦争終結までは主にロ号飯盒と呼ばれる、今日のレジャー用兵式飯盒とほぼ同じ形状のものが採用された
飯盒炊爨には複数の兵士で行う組炊爨と兵士が各個に行う各個炊爨とがあった。組炊爨の場合は複数の飯盒をセットで用い一部で炊飯し残りで副食物を調理した。各個炊爨では、米を炊く際に中蓋へ副食物を入れて炊飯と同時に調理する方法が取られた。各個炊爨では副食物の火加減が不可能でまずくなることが避けられず、陸軍の調理マニュアルの「軍隊調理法」においては、一個の飯盒で炊飯と副食物の同時調理を行うことはやむを得ない場合を除き避け、なるべく複数の飯盒で組炊爨を行うよう指示している。兵士が糧食を携行する場合、通常は布袋に入れて背嚢に入れるが、飯盒に生米を入れて携行する場合もあった。
1932年(昭和7年=皇紀2592年)に採用された九二式飯盒(通称「二重飯盒」)は一見兵式飯盒のようだが、独特の2重構造を持つ。内盒と外盒の入れ子式になっており、両方を用いると一度に最大8合の米が炊け、または飯4合と味噌汁を同時に調理することもできるようになった。それまでの4合炊きの飯盒では
1日3食6合の調理に少なくとも2回の炊爨が必要であったが、九二式飯盒では
一度に炊爨可能になった。ただし、一般的な兵式飯盒に比べ構造が複雑で煩雑になるなどの欠点から、間もなく前述のロ号飯盒に置き換えられた。
太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、金属類の不足と生産工程簡略化のために、飯盒から中蓋が省略され、鋳物で作られるようになった。
終戦後は、復員兵たちが持ち帰った飯盒が物資不足の日常生活の中で活用されたようである。